邪馬台国の場所特定

1.はじめに

 魏志倭人伝を検証した結果、邪馬台国の位置が特定できたので、このサイトを立ち上げました。

 結論から申し上げますと、大分県(一部福岡県)になります

 ただ、私個人の研究結果であり、かなり、他意見への批判もありますが、ご了承願います

2.古代日本

 古代の日本については、縄文時代、弥生時代まで、中国のような文明国家は存在しないと、一般に思われています。しかし、近年、考古学的には、三内丸山遺跡(縄文)、吉野ケ里遺跡(弥生)のような、集落の存在が確認されており、これらを考えると、これらがピンポイントであったのではなく、日本のいたるとこにあったと考えるのが自然であります。

 事実、黒又山(青森県)、鬼の城(岡山県)のよなうな、少人数ではとてもできない人口遺跡もあります。

 中国では4千年前に文明が発生しているので、近くの日本で2千年も文明化されてないほうが、異常と考えるのが自然です。中国では、上海等都市部は、文化大革命終焉後、たった30年で日本の所得水準を追い越すほど発展しています。いかに、現在、交通の便が良くても、ジンギスカンの時代、ジンギスカン自身、中国とヨーロッパの間を一往復しています。これを考えれば、日本に2千年文明がないほうが異常です。

 つまり、少なくとも、卑弥呼の時代は日本のいくつかに、都市国家あるいはそれに近いものがあったと考えるのが自然です。

 中国の史記でも、東方に蓬莱山など3山(日本)があり、不老長寿の薬を求めて、徐福が向かったとの記録があります。普通に考えれば、徐福は探検隊ではなく、交渉に行ったと考えるほうが普通です。これは卑弥呼より5百年前の出来事です。

 中国は東を東戎を下げずんでいましたが、私個人的には、日本、朝鮮、沿海州を含んだ、極東文明圏があり、その中心は近畿であったと(古事記より)考えるほうが普通と思われます。そして、時の時勢により、満州、朝鮮、九州がそのどちらかに組み込まれたと思われます。

3.考古学

 考古学は、その時代の生活様式を探るのは非常にいい学問です。ただ、分かるのはそれだけです。世界中くまなく掘り返してるのではありませんから、ピンポイントで出た遺跡から全体を推察する学問です。だから。この時代にここで、大きな遺跡がでたから、ここにその地域の中心勢力があったと考えるのは不自然です。これを邪馬台国近畿説の人は近畿に大きな遺跡があるから邪馬台国は近畿だと言っています。考古学から見れば、邪馬台国断定の方法は、ここは邪馬台国であったという碑文でも出なければダメです。

 ましては、中国では夏王朝の時代の都市跡の遺跡が発掘されていますが、それで、夏王朝の存在が確認されたとは、言っていません。理由はその遺跡が夏王朝であることを示す証拠(特に文字)の発見がないからです。さらに日本でもおかしなことが発生しています。壺の碑です。ここには日本中央で書かれておりますが、発見場所は青森県です。そして壺の碑の存在は、平安時代から知られており、近年再発見されたものです。考古学で考えれば、古代は青森県が日本の中央であったと言わないといけない証拠でですが、これは無視されています。

 蛇足ですが、文献資料でも否定されているのもあります。マルコポーロは東方見聞録を書き、黄金で家々が覆われている、ジパングという国を紹介しています。これは、日本の東北地方(特に平泉)のことらしいのですが、この時代の唯一の現存物である、平泉の中尊寺金色堂は文字通り、黄金でおおわれています。であれば、平泉では少なくとも上級階級の家であれば、黄金に覆われていたと考えるのが自然です。  

4.魏志倭人伝

 邪馬台国は魏志倭人伝のみ現れる国である。他では写文等別にすれば一切現れない。となれば、魏志倭人伝を全ての根拠とし、この文書は間違いがないと考えるべきです。読み方の違いはあるかもしれませんが、行程を1月を1日に変えたり、東を南に変えたりは、魏志倭人伝そのものを否定することになります。それは邪馬台国はなかったと同一の言い方です。それに、これは国史であり、正式文書と言っていいものです。あまりいい加減なことは記載できなく、もしあれば、後年修正されるはずです。ここから、魏志倭人伝は解釈の違いはあるかもしれませんが、間違いがないと言う立場が必要です。

5.国の読み方

 邪馬台国などの国、人の読み方は、漢字を多くの人は日本読みしてますが、日本人向けに書いた書物でなく、中国人向けに書いた書物であり、当然、中国読みとなります。中国人が、発音に近い漢字を当てたというのが、自然です。では一番近い中国語(中国語は方言がいくつもある)は魏の国の位置から現在残っている言語では北京語が一番近い発音になると思います。ちなみに発音にちかい漢字を当てはめる行為は、日本もやっています。たとえば英国、英吉利:イギリス等)。ここで問題になるのが末廬国です。

6.国の中の国

 1968年まで、日本国には60以上の国(武蔵、加賀等)があり、現在も、日本全体を表す時、全国と言っています。お隣中国でも、劉邦が項羽に漢中王に任ぜられています。漢中は中国のひとつの国だということにになります。ちなみに劉邦は中国を統一し全体を漢と名乗るようになったとのこと。この考えですと、邪馬台国の中に多くの国があると考えるのが自然です。実際、末廬国、伊都国、奴国、不弥国は邪馬台国に統属すると魏志倭人伝に書いてあります。

7.道案内

 ここで、もっとも重要な案件である道案内を記載したいと思います。道案内は単純で、万国共通です。初めに、大体の案内をし、目的地に近づくと詳細な案内に変わります。一度、詳細な案内をして、また、アバウトな案内に変わることは絶対にありません。さらに、いくつかの目印になる、距離までを言いながら、案内し、その後、そこまでの時間をいいます。この時、時間を言うとき、だれも、改めて、今いるところからなんて言いません。これが基本中の基本です。例としてある人から駅で、市役者までの行き方をたずねられれば、こういうでしょう。「この道を北に200m行き、その信号を右に曲がり、さらに300m行けは、市役所の案内が出ています。車だったら5分、歩いて10分でしょう。」わざわざ、車の前に、駅からといいません。これを魏志倭人伝に当てはめればいいのです。

8.邪馬台国への距離方位

 行程は一般論の一大(壱岐)までは問題ありません。問題はその次の海を渡ること千余里、末廬国です。多くの人が末廬国を日本語読みし、マツラと呼んで、松浦半島と言っていますが、中国発音ではムリュに近く、近い地名を考えれば、門司です。後は、南東5百里で伊都国、さらに南東百里で奴国、さらに東百里で不彌国です。後は、行程記述ですから、ここで邪馬台国到着です。つまり、末廬国からの行程全て昔の豊の国(豊前。豊後)の中です。そして不彌国が卑弥呼のいた場所と推定できます。さらに奴国ですが、福岡県で金印がでたから(偽物説もあり)、福岡市あたりが奴国といってる人もいますが、魏志倭人伝には奴国は周りの国々でもう一度出てきます。行程途上で出た国でもう一度でた国は奴国以外ありません。よって奴国は2つあったと考えるべきでしょう。

9.邪馬台国到着の記載がない理由

 邪馬台国到着の記載がないのは常識的です。現在も韓国から日本に来る場合の基本案内はこうです。「韓国から飛行機に乗り羽田(成田)に着き、電車で東京に行く。」どこにも、日本の文字はありません。

10.水行、陸行

 次に、水行20日で投馬国、水行10日、陸行1月で邪馬台国の記述になります。ここで先のポイント、ここからという記載いずれもありません。先ほどの道案内の原則によればいずれも帯方郡からの行程になります。つまり、帯方郡から投馬国まで、水行20日で行き、帯方郡から邪馬台国には水行10日または陸行1月で行くと考えるのが自然です。投馬国はどこかといえば、発音から.薩摩(鹿児島県)が自然です。ちなみに、投馬国は中国でもよく知られている国なので、サンプルとして挙げた可能性が高いと思われます。水行、陸行の違いは、船で直行便をチャーターできるかの違いと思われます。さらにわざわざ帯方郡から邪馬台国まで1万2千里と魏志倭人伝では記載してあります。それぞれの不彌国までに行程距離を全部足し算すると1万5百里。これはイコールに近い数字です。この記述がある限り、近畿説はあり得ません。蛇足を言いますと、距離が千5百里あるのではといいますが、これに誤差分加えても3千理程度。これを水行10日となると、対馬、壱岐間は千里なので3日程度かかることになります。こんなことあり得ません

11.中国から見た東戎

 中国の中華思想は自分の国は一番であり、他は野蛮人が住んでいるという感覚です。当然、こんな野蛮人のことを記載するかという感覚になります。(日本でも感覚は一緒です。日本の世界史でヨーロッパは詳しく記載するのに、フィリピン、インドネシアの歴史はほとんどありません)ただ、野蛮人でも正史にあげる国があります。そのひとつが、中国を脅かす強大な国(元や清)。もうひとうが、中国に服属する国です。邪馬台国は中国に服属する国です。当然。同時期に大和に大きな国があっても、中国に隷属せず、さらに、中国制服の意図もないので、中国からは、無視されるだけです。これの典型的例が日本の南北朝時代に起こっています。当時、倭寇に手を焼いていた明朝は九州で大きな勢力を持っていた南朝の懐良親王に倭寇を抑えるよう使いを出しています。この時、日本で大きな勢力を持っていたのは、北朝の足利政権です。つまり、明は足利政権の存在を知らなかったのです。だから、考古学的に見て、大和に巨大政権があるからそれが邪馬台国とは言えません。

12.大分は地勢的、経済的に大勢力の出現は無理では

 これは良く歴史学者がやる論法です。たとえば、織田信長は尾張という強大な経済基盤を取ったからとか。それを言うななら、当時世界の銀の半分を産出していた石見銀山を抑えていた、毛利氏が天下を取るはずです。実際、大分からも戦国大名、大友宗麟が出現し、一時期、九州の大半を抑えています。少なくとも、明が使者をよこした懐良親王の版図レベルです。

13.邪馬台国豊の国

 末廬国=門司でなくても、行程をたどれば、豊(豊前、豊後)以外考えられません。さらに周囲5千里や東海の向こう千里に倭種の国(四国)もすべて一致します。さらに宇佐八幡宮があり、ここには2人の女神が祭られています(邪馬台国には卑弥呼、壱与)。ここで問題は狗奴国ですが、発音からすると熊であり、熊襲の可能性が高いと思われます。位置は現在の熊本県(隈の本とわざわざ地名がいっている)であり、どちらかというと勝者は熊襲であったと思われます。理由は熊(肥前、肥後)の国が熊本、長崎、佐賀にまたがる大国だからです。また、邪馬台国7万戸とあります。これで、竪穴式住居(私個人的な考えだと、冬は竪穴式、夏は高床式に住んだと思っていますが)だと1戸当たり4名程度、すると人口28万人、1598年の検地では豊の国は56万石、つまり56万人になり、邪馬台国=豊の国で、ある意味適正と思われます。(邪馬台国も戦国時代も主体は水田耕作で、主食は米のはずです。世界で見ても、人口が爆発的に人口密度が多いのは、インド、中国であり、いずれも水田耕作地帯です。つまり、土地の栄養分が枯れない水田耕作は狭い土地でも人口を増やします。)

 蛇足ですが、裸國・黒歯國が南東船行一年にあるといわれていますが、これは南米を示していると思われます。そしてこの国の漢字は発音ではなく、意味を記載していると思われます。これは、東日本大震災の漂流物が1年で北米に到達していることかもわかります。南米で縄文式土器の出土もあるので、骨董無形な話かもしれませんが、魏志倭人伝の筆者が嘘ではないので面白半分で入れたと思います。

4.古事記との関連

  古事記、日本書紀には一切、邪馬台国の記述がありません。これらは中国の歴史書を真似て作成された書物であり、編者は 中国の歴史書に日本が出てくる数少ない書物にも関わらず、知っていたはずなのに無視しています。これは、邪馬台国が日本の後継国家にならなかったことを意味していると思われます。これを見ても大和説は無理があります。では、まったくないかと言うと、天岩戸の場面(大分に皆既日食あり)と天孫降臨(場所は大分のすぐ南の宮崎)は邪馬台国の内容が入っている可能性がある思われます。

 では、その頃の日本の情勢はと言うと次のように考えられます。古事記では日本武尊の熊襲討伐は景行天皇のとき、日本武尊はその後蝦夷も征伐していますので、これ以前となります。いわゆる崇神王朝の時代であり、崇神系の天皇は近畿を中心に相当な勢力を持っていたということになります。ただ、東には蝦夷がおり、九州では、豊と熊襲が九州の他国を巻き込んで覇権を争っていたと考えらます。

邪馬台国までの行程

 

魏志倭人伝原文

中国語発音

国名コクメイ 中国語チュウゴクゴ発音ハツオン北京ペキン
狗邪韓 gǒu xié hán 
対海 duì hǎi 
一大 yī dà 
末廬 mò lú 
伊都 yī dōu 
不彌 bù mí 
投馬 tóu mǎ 
邪馬壹 xié mǎ yī 
狗奴 gǒu nú 
侏儒 zhūrú

 

付属

三角縁神獣鏡

 これをもって卑弥呼が魏からもらった鏡と言う人もいますが、この鏡、魏では使われていない年号が出土しています。いくら、大国の中国で、野蛮人の国に正式な物品を送るときでも、奴らは漢字が読めないと思って、こんな失礼なことはしないはずです。もし、したとすれば、魏志からその文書を削除、または、奴らは野蛮だからという文書を残します。

邪馬台国の一般論の分かりやすいサイト

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